★解禁その10★最終回!!!
たまちゃんの「玉手箱あけたら…」第10話
どの回も大反響の「玉手箱」とうとう最終回です。
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自分で勉強して、考える。 肝機能の数値が悪いのは、薬のためだと考え、いろいろ調べました。
驚きました。1週間くらいで、顔つきが変わってきました。 一日中起きているようになりました。洗濯をし始めました。 少し笑うようになりました。 1ヶ月後の検査で、体重は10kg減り、血液検査の数字もよくなっていました。先生は、薬をやめたのを知らないので、劇的な変化に驚いていました。
読んでくれて、ありがとう。
見守ってくれて、ありがとう。
たまちゃんの「玉手箱あけたら…」その9
★解禁その9★たまちゃんの「玉手箱あけたら…」第9話
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長女が受験を決意したので、親としては果たして受け入れてくれる学校があるのかという問題に直面しました。もともと中高一貫校の都立に入学していたので、やめるのも大変でした。何度も話し合い、ようやく中学卒業という形をとってもらうことができました。
20校都内の学校をまわりましたが、現在不登校進行形の子供を受け入れてくれる学校はありませんでした。それでも諦めきれず、21校目に話を聞いてくれるという学校に出会いました。面接には長女と二人で行きました。
学年主任の先生の言葉。
“辛かったね。大丈夫だよ。この経験は役に立つよ。本が好きなんだね。
本の好きな子は心が優しくて、柔らかいんだよ。でも、傷つきやすいんだね。“
長女は下を向き涙をこらえながら小さくうなずきました。
私は我慢しきれず、初対面で泣きました。
今まで我慢していた気持ちが、心の水風船が破裂してしまいました。
そんな私に先生は、話しかけました。
“大丈夫ですよ。お父さん。素直ないい子じゃないですか。
きっといい高校生活をすごせますよ。“
決心しました。どんなことがあっても長女と勉強し、合格させると。
しかし、中学1年の夏からの不登校は、受験をするにはあまりにも困難でした。
11月から2月までの間に、中学3年間の勉強を取り戻さなければなりません。
私は、仕事を休んで毎日一緒に勉強することにしました。
今でこそ、もう少しうまい時間の使い方が出来るかも知れませんが、当時はなりふり構わず、とにかく全力で関わなければとの思いでした。いろんな人に迷惑をかけるのは承知で、診療所が潰れてもしょうがないという覚悟でした。
2月10日、受験の日、次の日には連絡がありました。
すごく頑張りましたね、おめでとうございますと電話がありました。
これで不登校がなおり、幸せな高校生活を過ごしました、
となればいいのですが、そんなに簡単ではありませんでした。
高校1年の夏休み明け、2学期にはいると再び不登校は始まりました。
ショックでした。
9月に妻が救急車で運ばれ、再びどん底感を味わっていました。
なぜ同じことが繰り返されるのか?どうしてこんな事ばかり起こるのか?悩み続けました。
妻が入院した病院にいた時、長女からメールが届きました。
“パパと直接話すと私はすぐ泣いてしまうので、メールにします。
私は将来がすごく不安です。コミュニケーション能力に自信がないし、人と話すのが嫌だと思う時があるし、何か取り柄があるわけでもないし、そもそも学校にすら通えてないし、生きている意味がないんじゃないかと思いだしたので、パパに救助要請です。
私は今、頭の中が暴走しておかしくなって自分では止められなくなっています。助けて“
急いで帰宅し、話し合いました。
高校に行くようになって、知らないうちにもう大丈夫だと思ってしました。
そのため、外出する機会が増え、家族と関わる時間が少なくなってしまった。
どん底から這い上がり、あとはどんどん良くなっていくと勝手に思っていた。
でも、心の底には不安があった。
これらの話をして、あやまりました。
その上で、自分と長女に問いかけました。
不登校ではだめか?
どうあって欲しいのか?
今、幸せか?
そして、一つの結果を出しました。
学校に行かなくてもいい。笑顔で一日を過ごし、寝る前に充実感があり、ぐっすり眠れるような毎日を過ごしてほしい。好きな事を、大好きな本をたくさん読めばいい。
次の日から彼女の行動に変化が現れました。朝は早く起き、学校には行かず、本を読んだり、犬の世話をしたり、家事を積極的に手伝うようになりました。笑顔が増え、規則正しい生活が戻ってきました。このままでいいかなと思い始めたある日の朝、制服を着ている長女におはようと言われ、驚きました。
“どこに行くの?”
“学校、出たい授業があるの”
“へえ、そう”
その日から、出たい授業と試験をうけ、なんとか高校2年生に進級しました。
しかし、まだまだ試練は続きます。
高校2年の終り頃、新しい学年主任の先生に呼び出され、面談を受けました。
その先生は、長女に厳しく言いました。
“このままでは、3年生になっても受験ができない。このままでは、ろくな仕事につけない。もっと真剣に将来の事を考えるように。いつまでも甘えていてはいけない。”
長女は下を向いて、唇を噛みながら震えていました。
それを見た瞬間、私は大きな声で先生に言いました。
“彼女は頑張ってきました。今もすごく頑張っています。これ以上は無理です。
どうしてもと言うなら、もういいです。今まで、ありがとうございました。“
先生は驚き、いろいろ説明を始めたが、私の耳には入らなかった。
長女の横顔をずっと見ていた。
先生がひとしきり話終えた頃、長女が口を開いた。
“もっと頑張ります。衛生士になりたいんです。父と働きます。”
その言葉に、涙が止まらなくなりました。
強くなったなと思いました。
その約束通り、3年生になった彼女は、風邪で一日休んだだけで、卒業式を迎えました。
そして、鶴見大学の衛生士科(妻の母校)に合格しました。
これからもいくつも壁は現れると思います。
でも、私は応援し続けます。
次回で最終回です。妻と私の話で締めくくろうと思います。
たま
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」
村上先生
読んでくれて、何かを感じてくれたら、嬉しいなぁ
みなさまのココロに届きますように
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たまちゃんの「玉手箱あけたら…」 その8
★解禁その8★
たまちゃんの「玉手箱あけたら…」 第8話
★村上先生より★ 不登校は、20万人、心療内科にかかる人は、もう数えきれないくらいいる。そんな人達の目に触れて、勇気をもってもらえると嬉しいなぁ。
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少しだけ時間をもどします。
私がCHPに出会ったのは、偶然ではありません。ものすごく欲していたからです。
HTP2期として学び始めたころ長女の不登校は始まりました。
月に1回のセミナーとその後の懇談会は、当時の自分にとって至福の時間でした。しかし、他の先生やスタッフがいかに医院を良くしていくかを考えているのに、自分の一番の問題は長女でした。
コミュニケーション能力を磨いて、長女の不登校を治したい。
セミナーの中で諸井先生から言われた言葉
「コミュニケーションはなあ、かみさんや子供ととるのが一番難しいんや、それがバッチリできたら怖いもんなしやで。」
なるほどと思いつつも、ショックでした。
そしてもう一つ、“自分が源泉”この言葉も心の隅に引っかかっていました。
6ヶ月後、妻と子供3人を修了式に呼び、長女に向けて訴えました。
自分としては、少しは伝わると甘く考えていました。
無理やり連れてこられた子どもたちは、ふてくされ、ゲームをしている始末。
帰宅後、子供たちからは不満の声しか聞かれませんでした。
なかでも次女から言われた言葉
「あれじゃさらしもんだね、気持ちいいのパパだけじゃん。」
わが身のふがいなさに落ち込みました。
自己満足だったのか、思いがたりなかったのか、誰のための発表なのか、悩みました。
そして、答えが見つからないままCHPから離れ、悶々とした日々を過ごします。
その間、妻が病気になり、働かなくなり、母が亡くなり、薬にはしり・・・
自分の考えられるどん底まで落ち、一つの答えにたどり着きました。
自分だ。自分を変えないと。
大嫌いな自分。自信もない。どうすれば?
そこからいろんな本を読みあさり、考えました。
自分をみつめるための本、みとめる本、あり方を考える本。
読めば読むほどあまりに自分のことを知らなかったことに気づきました。
長女のことはどのくらい知っているのか?
新たな問いが湧いてきました。
彼女のことが知りたい。
でも話してはくれない。どうする。
そのころ長女は起きている時はずっと本を読んでいました。現実逃避。
どんな本を読んでいるんだろう?
クビキリサイクル 西尾維新
なんて題名だ。これは無理か、でも読んでみよう。
読んでみると、見た目とは違って読みやすく意外と面白かったので、本を返す時に
“面白かったよ”と声をかけると “どこが?”と久しぶりに長女の言葉。
返事が返ってきたのでびっくりしながらも、主人公や登場人物の話をするとものすごい勢いで喋り出しました。そしてひとしきり話した後、無言で続編を8冊渡されました。
クビシメロマンチスト、クビツリハイスクール、サイコロジカル上・下、ヒトクイマジカル、ネコソギラジカル上・中・下。
すべての本を読み、感想を話し合いました。
気がつくと2時間、3時間経っていました。
目の前に小さいころ夢中で遊んでいた時の表情をした長女がいます。
ああ、忘れていたな、この顔が見たかったんだなぁ。学校行かなくても、こんな顔でずっといてくれたらそれでいいなぁ。
そんなことを考えていると、お父さんの本も読んでみたいと言われました。
その後は毎日、本の話をするようになりました。
少しづつ本以外の話もするようになってきました。
あれほどなぜ学校に行かなかったかと聞いても無言だった長女が、ポツリポツリと当時の心境を話し始めました。
それを聞いて私は号泣しました。
なんて自分はバカだったんだと。
なんで、あの時に聞いてあげられなかったのか。
ひとつではなかった。
たくさんの事が重なって、彼女は動けなくなってしまった。
その動けない彼女を私と妻は無理やり動かそうとした。
上から乗っかって押しつぶしていた。
“本当に辛かったな。パパごめんな。あやまるよ”
やっとの思いでそういうと、抱きしめました。
抱きしめられた娘は、小さな声で言いました。
“今からでも高校受験できるかな、妹と同じ学校に行けるかな、パパと一緒に働けるかな、衛生士さんになれるかな”
私は答えました。
“もちろん、大丈夫だよ”
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」
村上先生
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その7
★解禁その7★
たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」第7話
不幸の玉手箱が、「幸福」の玉手箱になる日がくるのでしょうか?
第1話~第6話、毎回大反響の玉手箱シリーズ、読み逃している方はCHP研究会Facebookページへhttps://www.facebook.com/chpgroup
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父からの電話。午前11時頃。診療中。
“朝、いつものように声をかけたが寝ているようなのでお昼の買い物に行き、帰ってきてもまだ起きてこないので、起こしに行ったら息をしていなかった。”
電話を切った後も、診療を続けた。 らしい。
覚えていない。
現実逃避をするように、いつもより明るく3人の治療をしたらしい。
午後、母に対面。
警察署の安置所。
扉の前で妻が言った。
“二人きりで話してくれば。その方がいいでしょ。”
この言葉にすくわれた。
だまってうなずき、扉をあけた。
顔の上の白い布をはずす。
眠っている、、、
その瞬間、大きな水風船が頭の上ではじけた。
顔がびしょびしょになる。
間に合わなかった。ごめん。
全部なくなった。虚無。
なにも考えたくない。なにもしたくない。
なにも考えたくない。なにもしたくない。
唯一の安全な場所が無くなった。
もう大丈夫と言ってくれない。
なんのために生きるのか。
こんなに辛いのに。
苦しみから逃れたい。
どうしていいのか、わからない。
それでも、日常はやってくる。
ふつうに(?)仕事をこなすが、心は固まったまま。楽しくない。
本を読む。
今の状態は、すべて自分が引き起こしたこと。
神様は越えられない困難を与えない。
嘘だ! 本を破り捨て、壁に投げつける。
ダメな自分と向き合えば、向き合うほど、自分が大嫌いになっていった。
長女の不登校、妻の病気、母・・・・眠れない。
心療内科にかかり、薬をもらう。
吐く。
心に鉛がたまり、動けなくなる。
仕事ができない。
明日こそ、明日こそと思うが、仕事にいけない。
2か月がたったころ、姉からの電話。
頑張れって言われるんだろうなと、いやいや電話に出る。
“覚えてる?前の日、お母さん、あなたに電話するって言って、私が電話をかけたの。”
“?!”
“夜遅いから、明日にしようって言ったのに、どうしても話すと言ってかけたんだよ”
“あれが最後になっちゃったね。”
えっ、そうだっけ?かすかに記憶がよみがえる。
“あなたはあなたのままでいいから。いつも応援してるからね。”
頭のおくで声がした。
思い出した!!!
頭の上の水風船が再び破裂した。
生んでもらったんだ。ありがとう。
育ててもらったんだ。ありがとう。
愛してもらったんだ。ありがとう。
かえさないと・・・・
薬をゴミ箱に全部捨てた。
たま
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」
村上先生
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その6
★解禁その6★ たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」第6話
たまちゃんの秘話、これまで以上に「不幸」へ落ちていきます。全10話、いよいよ、後半です。
妻は夜中に倒れて、救急車で運ばれましたが、点滴をうけて朝方帰宅できました。
検査の結果、CTもMRIも問題なし。ストレスの可能性が高いと言われ、長女の不登校の話をすると多分それが原因でしょうとの事で安心していました。
ところが、次の日の夜、再び苦しみだし、救急車で昨日とは別の大学病院へ運ばれました。
検査と点滴をして帰宅、そしてさらに次の日も。
3日連続で救急車のお世話になり、そのたびに検査をうけ、問題ないとの事。
3つ目の病院では、点滴の際に大騒ぎになり、あまりに様子がおかしいので精神的な疾患ではないかと先生に尋ねましたが、専門でないのでわからないと言われました。
ネットで調べるとパニック障害という病名に一番症状が近かったので、心療内科を受診しようとしますが、どこも満員で初診は3カ月待ちと言われました。今すぐ診てほしいのにと腹立たしく思い、さらに調べたところすぐに診てくれるというあやしげな病院に出会いました。藁にもすがる思いで受診すると、話もそこそこに大量の薬が処方され、救急車は呼ばなくなりましたが、食事が取れなくなりみるみる痩せて行きました。
また精神的な波が大きくなり、私が診療していると泣きながら帰ってきてほしいと電話がかかってくるようになり、1か月のうち診療日数が5日~10日の月が続きました。
スタッフも来院者も離れていきましたが、どうすることもできませんでした。
妻が10kg痩せたころ、このままではいけないと国立病院に連絡をとり、3か月待ちといわれますが、予約をいれて待つことにしました。
あと数日で国立病院へ行けると喜んでいたところ、妻から電話があり、変な電話かと思い予約を断ったと言ってきました。目の前が真っ暗になり、急いで国立病院へ電話をしましたが、もう別の人が入ってしまったので3カ月待ってくださいと言われました。
頭の中はぐちゃぐちゃでしたが、とにかく必死で説明しました。
「妻は精神的な病気なのに妻に電話して確認するのはおかしい、診療所に連絡して私に確認するべきだ。もうこれ以上待てない。3か月待ったんですよ。もう3カ月は待てない。なんとかお願いします。ぼろぼろなんです。」
私の必死の訴えに渋々時間外に診てくれることになり、体中の力がぬけました。
その後受診し、薬の量が半分になり、時々気持ち悪くなるものの寝ることで落ち着くようになりました。しかし、家事は全くできなくなり、毎日お弁当やマクドナルドで過ごすようになりました。この間、長女に対しては全く関わることができず、ひきこもりは本格化していました。昼過ぎまで寝て、夜から朝にかけて起きるという、昼夜逆転の生活です。ある日、夜中に37階のベランダに立っている姿を見つけ、ぞっとして部屋に入れと怒鳴ったこともあります。仕事、家庭、すべてが暗闇の中で疲れ果てていきました。
そんな中、生活費にも困るようになり、父に相談に行くことにしました。
しかし、父は昔堅気の人間で、妻のことは理解が得られず怠けているだけだと言われ、長女に対しても甘やかして育てているからそんな風になるんだと言われ、私に対してはそんなクズには育てた覚えはないと罵られました。
当時母は癌にかかり、寝たきりになっていましたが、母だけは私に優しい言葉をかけてくれました。
「お父さんは短期だからあんなこというけど心配してるよ。大変だけど、無理しないで、あなたならなんとかできる。家族に優しくしてあげなさい。あなたは優しい子だから、大丈夫よ。」
その瞬間、号泣してしまい、しばらく泣き続けました。
母の言葉で、今がどん底だからあとは上がっていくだけだと気持ちを奮い立たせることができました。
数日後、診療所に父から電話がかかってきました。
母が目を開けないと。
村上 たま
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」
村上先生(第6話)
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その5
★解禁その5★
たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」第5話
会報誌チャッピー連載をしばらくお休みしていた、たま先生が再び「玉手箱」を解放してくださった第5話です。
重たいココロの扉を、開きます。
突然長い間書けずにいたことをあやまります。
ごめんなさい。
書いているうちに気持ちが過去に引きずられ、フラッシュバックしてしまい、
現在の状況とごちゃまぜになって書けなくなってしまいました。
黒田先生に相談したところ、また書けるようになるまで休めばいいとの事でした。
しかし、たくさんの人から、続きは書かないのとの声をいただき、やっと本当に
幸福の玉手箱モードになってきたので、今さらですが、続きを書かせていただきます。
仕事が順調に行き始めたころ、錦糸町の高層マンションに引っ越し、
長女は都立の中高一貫校へ入学しました。
初めはこの学校に入学するために都内に引っ越しましたが、受験の中で長女は私立の女子校が一次志望になり、そこには合格できませんでした。
今思えば、都立に合格して喜んでいた親と長女の気持ちに大きなズレがあったのかも知れません。
私はというと、そんな長女の気も知らず、家庭円満、仕事も順調と勘違いし、週に3回は飲みに行っていました。
不幸は突然?やってきました。
6月のある朝、妻が来て言いました。
「カンナ(長女)、学校行きたくないって。月曜から3日も休んでるのよ。何故って聞いても何も答えなくて、布団の中にいるの」
私はカンナの部屋に行き、無理やり布団から引きずり出して、怒鳴りました。
「何で学校に行かないんだ?何のために引っ越しまでして、受験したんだ?このまま休んでどうするつもりだ?そんなんじゃ、ろくな人間にならないぞ!」
どんなに怒鳴ってもカンナは一言も口をきかず、ただ下を向いて声を出さずに泣いていました。私は、イライラした気持ちで仕事に向かいました。
次の日もまた次の日もカンナは休み続けました。
このままでは、不登校になってしまう。
妻とついに大喧嘩をしました。
私「なんであんなになるまで、ほっといたんだ?ちゃんと見てろよ。」
妻「あなたは仕事仕事って言ってばかりで、子供や家族のことは任せきりじゃない。」
私「お前は仕事しないで、家にいるんだから当たり前だろう。」
妻「もう私じゃ無理だから、あなたなんとかしてよ!」
考えた末、1週間診療所を休み、その間に決着をつけようと考えました。
原因を究明し、解決すれば簡単に学校に行くようになる。
簡単だ。よく話をすればいいだけだ。
いざとなれば、無理やり何日か学校に引きずっていけば、何とかなるだろう。
甘えてるだけだ。
この後、実際に全く会話はできず、1週間毎日無理やり引きずって学校に行きました。
この間、担任や校長先生、カウンセラーの先生と相談しましたが、無理やりはよくない、本人が自分で動き出すまで待ちましょうと言われました。
そして、そのまま夏休みに入り、新学期が始まりましたが、状況は変わらず、
そしてそのままカンナは、二度と学校に行くことはなくなりました。
どうしたら、いいんだ?
悩んでいるところに、妻が夜中に倒れ、救急車で運ばれました。
どうなっているんだ?
不幸の玉手箱が開き始めました。 たま
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CHP研究会 会報誌CHAPPY1連載「玉手箱あけたら…」
村上先生
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その4
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」第4話
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たまちゃんってどんな人
それでは、第4話です
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帰宅して、妻に話をして、 3つの覚悟を決めました。
1 .診療所の近くに引越し、妻に手伝ってもらう。
2 .新しくスタッフを雇う。
3 .子供達を転校させる
次の日の朝、誰もいない診療所に行き、キャンセルの電話をしました。
3日間休診をして、その間に新しいスタッフを採用することにしました。
タバコは吸う人は絶対に雇わない。
決めてからの行動は早く、 3日のうちに
新しいアパート(診療所から徒歩10分)、
スタッフ(診療所に張り紙をしたところ、10名の募集があり、そのうち 3名採用)、
小学校(診療所からもアパートからも徒歩5分で真ん中にありました。保育園(小学校の斜め前、健診と講和をする条件で途中入園)を決め、
住んでいたマンションは売りに出しました(アネハ事件で安くしか売れませんでした)。
一番辛かったのは、子供達の転校でした。
それでも朝、家族全員で家を出て、小学校に長女と次女が行き、三女が保育園へ、学校が終わると診療所で宿題をし、5時になると妻が三女を保育園に迎えに行き、夜 8時にみんなで夕食。
大変だったけれど、一番家族が一緒に行動して、充実した日々でした。
新しいスタッフは、とてもよく働いてくれ、患者さんたちも戻ってきてくれました。
自分自身も家族に見守られながら働くことに、力をもらっていました。
6ヵ月後、患者さんが増えてきたので、大学から小児歯科の先生をアルバイトで雇い、衛生士も増やし、全てが順調になっていました。
妻が長女を受験させたいといってきたので、本人と話をすると私や祖父の通っていた都立の受験校に通いたいと言いました。都立の学校を受験するためには、都内に住民票がないといけないので、実家で同居をするか、新しく住む家をさがすか考えました。実家の同居は両親に断られ、マンションに住むことにしました。
さらに 6ヵ月後、都内に引っ越し、妻は働くのをやめ、子供達は 2 回目の転校をしました。
子供達のためによかれと思ったこの選択が、新たな不幸の始まりでした。
東京 HTP 2 期 村上 正治(たま)
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CHP研究会 会報誌CHAPPY1連載「玉手箱あけたら…」
村上先生(平成22年発行17号 第4話)
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その3
★解禁その3★
たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」第3話
第1話にまして、第2話が大反響の玉手箱シリーズ
さて、不幸の「玉手箱」たまちゃんの秘話が続々とあらわになっていきます。
たまちゃんってどんな人
パート1)高峰先生 パート2)三好先生
*****
ストレスで腸に穴が開き、入院は 2 週間になり、起きているときはどうしてこんな事になったのかと思い悩み、眠りについても、浅い眠りで何度も目が覚めました。情けないことに来院者の方に追いかけられる夢を何度も見ました。
体重は 2 週間で10㎏減りました。
生きていることがつまらなく感じていました。
食事が出来ないため、食べることの時間の長さを意識したことはありませんでしたが、他の人が食事をしている時間が、一番暇で辛かった気がします。
1 日 3 食ずっと点滴だったのですが、退院の 3 日前に始めて 3 分がゆを食べました。
ご飯粒がほとんどないようなおかゆでしたが、口から食べる幸せを感じました。
口から食べられるってすごいなーと少し気持ちが明るくなりました。
そしてそれにかかわることのできる歯医者という仕事は、大切な仕事だなとあらためて感じました。
退院するその日は、外を歩ける嬉しさと、フワフワする身体、どんな顔で従業員とあえばいいのかを考えて、憂鬱でした。
診療を開始する日の朝、診療所に行くと従業員が全員で謝ってきました。
その場では、しょうがないよと言いましたが、何がしょうがないのかわかりませんでした。まだ、気持ちの整理がついていない状態で、頭のなかはパニック状態でした。
実際、診療を始めると 1 時間おきに吐き気を感じ、何度もトイレに行きました。
心が限界でした。
このままだとまた穴があく、なんとかしなければ・・・
給料日の日に従業員と話し合いました。就業の放棄という言葉で、説明し、退職を促しました。
その瞬間、 3 人の常勤は堰を切ったように話し始めました。
“忙しすぎて、ストレスがたまりました。先生のせいです!”
“人間だから少しぐらい失敗すると思います!”
“先生のことなんて、誰も好きじゃない!”
“本当は子どもは泣くとうるさいので嫌いでした。それでも我慢してたのに!”
最後に“私達がいないと明日から困りますよ。考え直してください。私達も気をつけますから“と言われ、頭が真っ白になりました。しぼりだすように声を出し話しました。
“すべての原因は自分にある。本当に今までありがとう。申し訳ないけど、心も身体もどうしても君達と働けないといっているんだ。患者さんには迷惑をかけるけど、しょうがない。明日からしばらくは一人でやるよ。予告手当金も払うし、退職金も出す。だからもう勘弁して欲しい。”
3 人はわかりましたと言って立ち上がり、
“死ねばよかったのに”
と捨て台詞を残して、バタンとドアを閉めて去っていきました。
やっと言えた。
放心状態で、横になり、しばらく天井を見つめていました。
涙はでませんでした。
5 分位して、電話が鳴り、受話器をとると怒鳴り声が。常勤の夫からでした。15分ほど“不当解雇だ、裁判起こすぞ”と騒がれ、ただ黙って聞いていました。そして、今までの経過を説明し、謝りました。そして“裁判をするなら受けるし、その場合、退職金はださない”と言いました。
“今から行くから、待ってろ!”
と受話器は切れました。
それから 1 時間くらいまた天井をみて、ボーっと過ごしていました。どうにでもなれと思っていました。
刺されたら楽かもしれないと思っていました。
チャイムの音が鳴り、出てみると従業員が 1 人立っていました。
さっき“死ねばよかったのに”と言って立ち去り、夫が電話をかけてきた人です。
すると意外にも謝られ“夫は来ないので、裁判はしないでください”と言われました。
もともと裁判をするつもりはないと話すと、退職金はいつもらえるのかと聞かれ、来月のお給料日まで待って欲しいと話すと、去って行きました。
気が抜けて、お金の切れ目が縁の切れ目とつぶやいていると、家族の顔が天井に浮かんできました。
涙がどっと出て、号泣しました。
大声で泣きながら、涙と一緒にすべて流して、明日から頑張ろうと思いました。
東京 HTP 2 期 村上 正治(たま)
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村上先生(平成22年発行16号 第3話)
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たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その2
第1話が大反響でした、たまちゃんの「玉手箱あけたら…」
いよいよ、開業してからの秘話があかされます。
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前回は、開業したところまで話しました。
理想に燃えて?開業したのですが、なにぶん未熟な院長です。
いろいろな問題が出てきました。
開業当初は、歯科助手(全員未経験)5名と妻(衛生士)の 6 人でスタートしました。
妻以外はアルバイト希望だったので、 3 人ずつローテーションしてもらい、時給で働いてもらっていました。最初は、一日10人くらいをゆっくり説明し、治療していきました。 3 ヵ月ほどで、一日20人来院するようになり、忙しくなってきたところ、 1 人が自律神経失調症とのことで、退職し、その後 2 ヵ月ほどで、更に 1 人やめていきました。
その頃になると、急激に来院者の数が増え、 1 人では無理と判断して、大学病院から小児歯科の後輩を週 1 回アルバイトで呼びました。ユニットも 2 台から 4 台にし、予防の体制も整えていきました。残った 3 人は常勤となり、忙しく働いていました。 1 日の来院患者数は40人を越え、お昼休みもあまりとれない状態になっていきましたが、とにかく頑張ろうと必死で働きました。
1年後、事件は起きました。
妻が妊娠し、産休に入り、新しい衛生士さんをアルバイトで 2 人雇いました。
とある日の朝、診療所の裏口の前にタバコの吸殻が数本落ちていたので、ポイ捨てかなと思いながら掃除をしました。
むらかみ歯科医院では、タバコを吸うひとは面接でお断りしているので、まさか従業員の吸殻だとは気づきませんでした。
数日後、近所の方から匿名の電話があり、公園で従業員がタバコを吸っていて、しかもポイ捨てしているとのこと。
みっともないとお叱りの電話でした。
常勤の 3 人が謝罪して来ました。
忙しくてストレスで吸い始めた?とのこと。
その時私は 3 人を退職させると仕事に支障がでると考え、スタッフルームに空気清浄機を置き、そこで吸うように話しました。今考えると、なんてばかな判断をしたのでしょう。甘い対処をしたことで、更に1ヵ月後、朝の掃除の最中に 3 人の常勤が診療所の裏口でタバコを吸っているのを偶然見つけてしまいました。
激怒りです。
裏切られた気持ちと院長としてのふがいなさがぐるぐるしていました。
“今日はもう帰っていいよ!”
彼女達の返事は、
“私達がいないと困るんじゃないですか?”
“大丈夫だよ。一人でだってできる!”
残ったアルバイトの衛生士さんにお願いをして、慣れない受付を頼みました。
45人、待たせて待たせて、あやまって、あやまって。
5時以降は一人で診療をしました。
7時までの診療時間ですが、その日は10時までかかりました。
だめだ……
無理だ……
とても疲れていたのに、その日の夜は眠れず、朝 5 時に診療所に行きました。
すると 7 時ごろ常勤 3 人がやってきて、手紙を渡され、あやまられました。
反省文がかかれていました。
もう一度だけ許そうと思いました。
でも、それは間違いでした。
自分でもわかっていたのかもしれません。
それから 1 ヵ月後、左わき腹の痛みを突然感じ、盲腸かな?と思いながら診療を続けました。日に日に痛みは増していき、熱もでてきたので木曜日の夜に救急病院にかかると入院が必要といわれました。
…憩室炎。
腸に 4 ヵ所穴が開き、炎症を起こしているとのことでした。
ストレスに心当たりはと言われ、開業して 1 年なのでと答ました。
朝まで点滴をうち、悩みましたが診療所を休む決心をしました。
明け方、無理を言って診療所へ行き、従業員に次のことを頼みました。
1 .アポイントの入っている全ての患者さんに電話連絡をし、状況を説明し、わかってもらう。
2 .連絡がつかず、来院してしまった患者さんに対応してもらう。
3 .急患が来たら、他の歯科医院へ紹介する。
その際、常勤の 3 人は、“わかりました。院内の掃除などできることはすべてやります”と約束してくれました。
そしてそのまま入院しました。
次の日は土曜日で、朝、診療所に電話をかけました。
土曜日なので 6 時くらいにあがっていいよと言うつもりでした。
誰も出ませんでした。
番号間違いかと思い、もう一度かけました。
誰もでませんでした。
あまりの情けなさに、布団の中で声を出さずに泣きました。
*つづく*
東京 HTP 2 期 村上 正治
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」
村上先生(平成22年6月20日発行第2話)
読んでくれて、何かを感じてくれたら、嬉しいなぁ
みなさまのココロに届きますように
★シェア大歓迎★
CHP研究会以外の皆様にも広く読んで頂けることを願ってます。
たまちゃんの「玉手箱あけたら・・・」その1
★★解禁
★★ 「玉手箱あけたら…」
平成22年から始まり大反響の「玉手箱あけたら…」(会報誌CHAPPY連載)が第10話にて最終回を迎えました。みなさまの「最初から読みたい」という声にお応えしてブログに公開する許可をいただきました。初めて読む方は第10話までの展開を楽しみにお待ち下さい。少しずつ公開してまいります。
★村上先生より★ 不登校は、20万人、心療内科にかかる人は、もう数えきれないくらいいる。そんな人達の目に触れて、勇気をもってもらえると嬉しいなぁ。
それでは、[第一話] 始まり始まり・・・
“不幸の玉手箱、たまちゃん”
東京 HTP 2 期(ニッキーズ)で諸井先生につけていただいたあだ名です。
とても気に入っています。
セミナーの初め頃、私の話を聴いた諸井先生が言いました。
“むらかみ先生、どれだけ不幸なの、玉手箱やん、たまちゃんやん!”
からんでもらってすごく嬉しかった。
そのぐらい自分の存在が透明に感じていた時期でした。
たまちゃんというあだ名を授かり、悩み事を話をしてもいい場を与えてもらいました。
ニッキーズですごした 6 ヶ月は、あっという間でした。
不登校の問題は解決しませんでしたが、みんなに話すことで恐さはなくなりました。 自分や家族と向き合い、悩んだ 6 ヶ月でもありました。
しかし、ニッキーズの修了式のあと CHP から遠ざかってしまいました。
長女の不登校と最愛の母の死、そして仕事をしない自分、いろんな事から逃げていました。シンポジウムやチャッピーで活躍するみんなの姿は、すごくまぶしく感じました。うらやましく感じ、遠くに感じました。
このままではいけないという思いはずっとありました。きっかけをさがしていました。
45歳の誕生日を再出発の日と勝手に決めて、CHP にもどりました。
SNS で長女の不登校や妻の病気について書いたところ、たくさんの人たちから反響がありました。初対面の人たちが、共感してくれたり、応援してくれたりしました。
諸井先生や加減さん、ニッキーズの仲間は、おかえりと言ってくれました。すごく驚きました。
そして、SNS に書いた後、少し心が軽くなりました。やる気が湧いてきました。ダメな自分をも認めてもらえるありがたさを感じました。そこからちょっとずつ前に進み始めました。
今回、執筆の依頼があり、この際だから不幸の玉手箱を一度ひっくり返して、全部見てみようという気になりました。
長女は、いきなり登校拒否になったわけではありません。
すべて私から始まったのです。
平成元年、昭和大学小児歯科学講座へ入局。
10年間大学の医局で過ごし、そこで衛生士の妻と出会いました。
大学病院では、 4 年間大学院へ行き、博士号を取得、その後 6 年間助手として働きました。
臨床、研究、教育と 3 本柱で特に臨床は、一日多くても 5 人患者さんを診るようなゆったりした診療でした。
学生を教えることもとても楽しく、人気のない小児歯科になんとか男子学生を入局させたいと思い、熱く語り、ほとんど毎日飲みに行きました。
仕事の上では人生の中で、もっとも充実していたときかもしれません。10年間の大学病院生活は、いつの間にか、たいくつに感じるようになりました。そこで開業を考えました。
平成11年12月千葉県松戸市で開業。
私は東京の下町生まれなので、縁もゆかりもない場所での開業でした。
たまたま友人とドライブに出かけ、六高台という場所の町並みが気に入り、偶然はいった不動産屋の親父に「歯医者に売る土地はない!」と怒鳴られたのが、きっかけでした。 このあたりの土地で開業するのが難しいということは、きっといい場所なのだと解釈しました。
その後、少し離れた地域の不動産屋さんで地主さんを紹介してもらい、現在の開業地を見つけることができました。その後、近隣の先生方の猛反対にあい、意地でもここでと思い開業しました。
私は、反発心が異常に強いようです。
ゆっくり自分の思うとおりの治療ができると喜んでいたのも最初の半年ほどで、いよいよ玉手箱が開いてきます。
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CHP研究会 会報誌CHAPPY連載「玉手箱あけたら…」 村上先生(平成22年6月20日発行第1話)
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